昭和48年09月18日 月次祭



 お道の信心をさせて頂いて、何時の間にか何とはなしに有難うなって来る、何時の間にか何とはなしにおかげと言わなければおられぬ程しのおかげが自分の周辺に、段々と満たされている。切って継いだ様にとはっきりとはしていないけれど、何時の間にか何とはなしに、おかげを頂いておる。ですから日々が何とはなしに有り難い。訳は分からん。私は惟がお道の信心を頂いて行く人達の体験でなからなければならないですね。
 何時の間にか、何時も信心してもありますけれども、ありますけれども、色んな事を嬉しかった事、悲しかった事を様々に、けれども、信心をさせて頂いておりますと、何時の間にかあれもおかげ、惟もおかげだと、感じずにはおられない程しのおかげ、そして何時の間にか、何とはなしに、自分自身が有り難うなっている。はっきりこうという、今朝、私は朝のご祈念の時に頂いておった事、ですから、今朝お話しようと思うておって、それお話を忘れておった。
 ただいまあの、此処に来た時に、あら今朝ほんにあんなお知らせ頂いておったなと思い出してから、今この話を聞いて頂きよります。ある事を私がお願いさしてもらいよりましたらね、虹がこうその虹が、例えば虹は七色と言うが、その七色の赤とか黄なとか、緑とかというのがはっきりとこう、まあー絵の具で書いた様にはっきりとした虹です。けども虹というのはそんなもんじゃないですよね。
 確かに七色からなっておっても、その何処が継ぎ目やら分からない様に、ぼんやりと赤と黄なとまたは緑とが、渾然として大体七色に数えられる、と言うのが虹であります。こちらには降っておる、こちらには照っておる。その合間に虹の橋が掛かる様にある。私共がはっきりしなければね、どう言う訳ですかと、はっきりしなければ神様もはっきりと言うても、こりゃもう分かる事ではないんです。
 今日も、朝の奉仕をさせて頂いておる時に、いしかきの中野さんがお参りして来た。まあ色々おかげを頂いて、そのお礼のお届けを、親先生こうやって段々年を取らせて頂きますと、時折ねもうしきりにその事を感じます。大体魂の行方と言う事を感じます。大体魂の行方というのがあるとでしょうか。さあ私も行った事が無いけん分からんよち。分からんのですね、けれどもね例えばその魂がある事だけは自分にも分かる。
 言うなら心がある事だけは分かるのだけれども、その心がなら例えばその医学てきに解剖して、惟が心だ魂だと言う訳に分からない様に、分からないのです。けども有る事は有るのですね、ですから私共が此の世に生を受けさせて頂いて、信心をさせて頂く様になって、愈々はっきり分からせて頂く事は、惟はねこの世には矢張り魂を清まりに来てるんだと言う事です。そりゃもうあらゆる角度から、段々体験に体験を積んで行って行く内にそれをこう、感じる様になる。
 何時であったか私と日田の綾部さんとが、もう四時のご祈念を終わってからでしたから、その控えに、高芝さんが一寸出かけておられましたから、それを待つ間、その信者控え室で、お茶を頂きながら、色々お話させて頂いた。で朝の御理解がその、本当に神様の間違いなさと言った様な話を確かしておったと思います。そしたら私がね、とにかくあの綾部さん、この世には魂を清まりに来てるんです。十年に生きる人もありゃ、さああわ良くば、いきなり百年も生きる人もある。
 この頃私のその命というか、占うてくれた。あの椛目の中島さんとこの子供達が、その親先生は幾つまで生きなさるじゃろうかねち。そしてそのなんか計算法があるそうです。すぐ向かいの池尻の所へ行ってから、おばちゃん、おばちゃん、親先生は百六十一歳まで生きなさる。まあちっとは僕の計算が違うとるかんしれんばってん、ちゅたそうです。ほー、百六十一までも、そげな計算があるたい、おばちゃんな百幾つまで生きる様な話を言う事でしたけれどもね。
 まそれこそ私がなら彼の計算通り生きた所で百六十年間である。ですからその百六十年間の間をです、愈々魂を清める事の為に私共の人生がある。この世にはだから魂を清まりに来たのだと、仏教の説をいうならばですね、いうなら天地の親神様は人間のいわば生死を通しての幸せを願われる。それには私共の魂が清まらなければならない。魂が清まる、所謂教祖は其処ん所を、和賀心が神に向うて行くのを信心と言うのじゃと。
 何十年しておるから、神様に近付くと言う事ではない。自分の魂が一歩一歩神様に向かって近付いて行くと言う事は、一分一厘づつでも、清まって行くと言う事なんだ。信心とはもうそれだと表現しても良いのです。というその姿勢がでけておれば良いと言う事です。そういう姿勢、信心とは本心の玉を磨くものぞや、信心とは日々の改まりが第一じゃと仰るその第一と言う所に焦点を置いて、私共が生活をさして頂く。
 だからなら御霊の世界に入らせて頂いても、矢張りその事を辿らせて頂くのですから神様ももう御安心。また此の世に牛にやら馬やらに生まれ代わりしなさる必要が無くなって来ると言う事ですね、この魂を清まる事が人生だと言う事を知らない。和賀心が神に向かうと言う事をの術を知らない。それが例えば50年なり80年なり生かして頂いておる間に、とうとうその事を知らんなりにもうそれこそ何千年、何億年掛かってようやく人間に生まれて此の世に生を受けながら、その事を知らんままあの世に行ってしまう。
 だからまーた逆戻りして、言うならばそれこそ犬やら猫にでも生まれ変わらなければならないかも知らない。こりゃ仏教のその説から言うとそうなんです。輪廻説ね。本当にあの人はそれこそ犬畜生の様な人だと言う様な人は、またそう言う事になって来るでしよう。けれどもそれは、一部分、思うて見た時もう自分の様な悪人があろうか、自分の様な汚い人間があろうかと、自分が分からしてもろうて、そこから一歩づつでも、神に向かう信心の精進をさしてもろうて頂く事が人生であり、または信心であるのだと。
 これはもう一生掛りでこの道を歩かせて頂くんだという、この姿勢さえでけておれば神様はもう安心して下さるなら、死んでからもそのまま歩いていたいのですから、段々和賀心が我ながら拝めれる様な生き方もなって来ると言う事。だからこの姿勢をまず作ると言う事。綾部さん此の世には、とにかく魂の清まりに来とるというて言うと途端に、あの確か寒かったでしょうね、あそこの障子が閉めてあった。あの信者控え室がバーンと、こうはじく様なおいさみでしたよ。
 私どもおいさみ頂く時に神様がそうだ、神様の心と言うかその核心に触れた時に、ああいう不思議なおいさみという働きがあるのです。だから私共は分からない、まだあの世に行った事が無いから。けれどもなら私今申しました事をです、そう言う風な物かも分からん、そんなら磨いたからというて損する訳じゃないから、本気でいっちょ磨いとこ、て言う事にならなきゃいかん。磨く事になって来ると、今度は私が有難うなって来ると言う、惟はもう確実に伴のうて来るものである。
 自分の心が神に向こうて進んで行くと言う事ね、惟はもう確実に神様に一歩でも近付けば近付いただけの有り難さと言う物が、交換条件の様に頂けれる。愈々有難うならせて頂く為に、愈々楽しみに、心の清まりを、魂の清まりを願うての信心にならせて頂く。しかもその心にはです、もう必ずおかげが伴のうて来る。だからその魂の行方てんなんてん、私もまだ行った事が無いけん分からんけれどもです。
 もう四十日にもなりますか、野口さんがお国替えになられてからね、もう四回ですかもう五回ですかね、先日から椛目の妹が又お知らせを頂いた。それがもう本当にそれはもう、どの野口さんでも素晴らしい、大体が器量の良いお方であったが、器量も美しいもう見事な着物を着ておられる。所謂助かっておる姿、そして色々と、その色んな言うならば、御霊の働きを教えて下さる。
 先日から丁度十三日の日でしたが、朝あちらの家内がお願いに出、お礼に出て見えましたが、久富正義さんのお母さんがお国替えのおかげを頂かれた。もう朝から擦ってあげると、有り難いというて合掌される。ちょっとこう揉んで上げると有り難いというて、あのもう意識がなかろうごとあるけれども、唯その事に対する有り難いだけはでる、とにかく有り難い有り難いで、十三日の夜お国替えになった。
 本当に惟は合楽にご神縁を頂いておるものは、十三日という日は大変有り難い日としてね、神の願いが成就する日としての尊い。惟は合楽の者だけなんですね。十三日をそ言う風にま、と言う事は良いて言うのは、惟はあの合楽だけ、アメリカあたりじゃ十三日というのは一番悪日だね。けども合楽では十三日という日を一番、神ながらな有り難い日と、いや神ながらというのは。
 神の願いがこの世に成就して行くと言う程しの有り難い日として頂いておる。て言う意味合いです。言うなら本当に八十五才という長生きのおかげを頂いて、一生を全うされた。その亡くなられた丁度翌朝、この内田公子さんが、お夢の中にもうその朝頂いておるのが、此処の御神前の三段目の八足の上に大きな御神灯がある。ガラスでこうでけた御神灯、そのガラスの御神灯にはっきりおばあちゃんが写っちゃる。
 そしてお広前をぱっと見ると、その本家の嫁さんのミツカさんね、そすと正義先生とが座っておって、子供達にご飯を食べさせておるという状態でした。もうそりゃ大変な告別式じゃったそうです。四百名からの、お葬式に参列された方達があったと言う事です。もう花輪などはもうどれだけあるやら解らんぐらい、おばあちゃんのお徳ですね。おばあちゃんが信心の元を取られた。そして本家は勿論なら正義さんの分家をしておる正義さんの信心を頂かれた事もです。
 おばあちゃんの信心のそう言う元を取られたというのですから、矢張りおばあちゃんのお徳だな、信心のお徳だなと思うのです。しかも此処でその子供達にご飯を食べさして頂いて、いうならば、子供達が手足が伸びておると言う事も、おばあちゃんの信心の根本を、元を取っておって下さったおかげで、今日の久富組があるのであり、今日の久富建設があるのであると言うお知らせであろうと私は思いました。
 だからそう言う例えばです、御霊の亡くなった、そう言う例えば夢の中にでもです、そう言う風な働きを見せなさると言うのを見ると、中野さんこりゃ御霊の世界、もう死んだらそれまでと言った様な物ではなくて、確かに御霊の活動の場と言う物があって、その活動が出来る御霊と、いうならば仏教的にいうなら、極楽に行っとる御霊もありゃ地獄に行っとる御霊もありゃまた生まれ変わって、それこそ犬畜生の様なものんでも生まれ変わって来て又何千年何万年しなければ。
 人間には生まれて来る事が出来ないと言う様な苦労をまた続けて行く様な、いうなら何やらかんやら分からん魂も沢山ある事だ。けれどもね、そりゃ私も分からんのだ、行った事がないから、分からんけれども、日々こうして信心を稽古さして行く内に様々な一つの礼儀と言うかね、不思議な神様の働きと言うものに触れてそれを思わん訳にはいかけないが、まあどちらにした所で、魂の清まりと言う事に焦点をおかなければいけない。勧善懲悪と言った様な言葉がありますが。
 大体あれがほんなこつでしょうか、あれはありゃしろうごつじゃろうごつあるの、と私は申しました。所謂その道徳的な思想、所謂仏教の思想、から悪い事すりゃ、悪い目にあうと言った様なね、善を勧める悪を懲らしめるというのです。お芝居なんかはもうほとんどが、もう昔の芝居は、ほとんどがそうです。金光様の信心をさして頂いておるとです、良い事と思うておる事が悪い事であったり、悪い事の様に思うておった事が、いや実はお礼を申し上げねばならない様な事であると言う事実をね。
 私どもがもっと深く、それを広く分からして頂くのである。とにかく魂を清めて、だから損にはならんのだから、一つ本気で魂の清まりを願わなくてはいけないね、と言うてお話をした事でした。私共がそれこそ何時とはなしにね、何とはなしに有り難い。有り難くなって来る、そして何時とはなしに何とはなしに前講に西岡先生がお話しておられました様にね、信心のいうなら、芽というものが出て此処に丸三年のおかげを頂いたが、子供達はまだ金光様というて拝みはせん。
 参っては来んけれども、六人の子供達が、六人の子供達がみんな御神米がないと淋しいという、御神紙を頂いてくれというね。お父さんの信心に、いうならばある意味で帰依をしていっておる姿に、この度帰ってそれに触れた時に、本当に有り難い、信心も自分の信心が進んであるか育っておるか育っていないか分からんのだけれどもです、何とはなしに信心の芽が、言わば子供たちの上にも少しは感じられられるという意味の話をしておられました。何時の間にか何とはなしに、はっきりしたものではない。
 雨が降るといや悲しい事と頂いても良いでしょう。お天気になった嬉い、有り難い事というても良いでしょう。その嬉しい事やら有り難い事等の相中に掛かって来るのが、あの虹である七色の虹である。その虹の七色もはっきり赤は赤、緑は緑と言う様にはっきり区別がしてあるのではなくて、何とはなしにぼんやりと、七色の虹が掛かっておる様に七色、はっきりと一線を画してない様に、はっきりは分かっていないけれどもね、分からんのです。けれども惟だけは言えれる事は。
 魂を清めて、私共は来ておるんだという信心を、本気で魂を清めて行くと言う事の為の信心の稽古をさして頂き、魂が清まりに付けて、有難うならして頂く。愈々二十三日は、御霊様の、言わば御大祭だ。教祖様が、御霊様をお祭りされる様になられたというのは、段々おかげを頂かれてね、自分の心を自分ながらお祭りして、金光大神祭りという祭りを生前からなさっておる。新と旧が十日という、連れなう日にいわゆる九日十日をお祭りなさっておられる。
 九日が言わば前夜のお祭りであり、十日が金光大神祭りとしてお祭りなさっておる。自分で自分の心を拝まなけれはおられない程しの有り難い域にね、親戚身内の者の御霊様を全部お呼びになっておる。そして御霊さまからです、この川手家にね養子にあんたが来てくれて、言わば御霊もおかげで助かるという御礼を聞いておられる。そしてその金光大神祭りに合わせて、御霊のお祭りもなさっておられる。
 ですから私共の一番有り難い時にです、言わば御霊のお祭りでなからなければ、御霊のお祭りの意義はないというのが、金光大神の信心をさして頂く者の御霊に対する関連した考え方はそこでなからなければいけん。神様も信じられん、御霊様も信じられん、有り難くものないというのに、御霊のお祭りでは、意義がない、意味がない。だから盆とか正月とか、彼岸とかと言う様な事をえらずに、自分の心の有り難い時に、最高に嬉しい有り難い時に、身内親戚のいわば全部、御霊様を呼んでお祭りをなさる。
 所謂御霊様共々に喜び合う所のお祭りが、金光教の御霊観であり、御霊祭りの根本になるものだと言う風に私は思います。ですからその二十三日という日をです、私共が有り難い、真心一杯、喜び一杯で、私が祭主する所のお祭りに皆さんも一緒に拝んで下さるというのが、私は御霊のお祭りと思うのです。そこでです例えなら私共が、色々と矢張り焦点というか、そのただ漠然と参っておる、拝んでおる。
 何とはなしに有難うなるという、今朝も申しました様に何とはなしに有難うなって行くにしましても、その日その日の信心の目標というか、焦点というか、そう云う物がですね、今朝からのご理解に頂きますと、黙って治めると言う事の内容がですね、有り難い親心をもって、黙っておれる様な生き方を身に付けて行く。又は自分の心にはばからない程しの事柄を。昨日合楽会で若先生がある問題を通して、こういう場合親先生、私はどういう気持ちになったら良いんだろうか。
 そげん時には私は黙って治めて行きよるけん、あんたも黙って治めて行く事を身に付けて行く以外にはないよ、と言うた物のです、後から気が付いてからですね、休んどってもうあんな事で良かっただろうかと思うてね、それが黙っておられるごたあるなら問題ないのだけれども、ね、また私夜中に此処にお礼に出て来ますから、その事をお願いさして貰いよりましたら、あの合楽の楽と言う字のね、一番あの下の木と言う字があるでしょう、その木の小さい木を頂いた。
 上は大きいねだから私共が本当はどの様な場合であっても、黙って治められると言う位にですね、自分の心が大きく豊かになった時ほど、楽な事はないです。それにはです、私共」がならね、もうとにかく自分の心にはばからん、一口言わにゃおられないと言う様な時であってもです、はあ今こそ神様が私の心を大きくして下さる事の為に、所謂この木ですね、自分の木を心を大きくして下さる事の為に、惟があっておるんだと言う事に分かった時に、その事に対してお礼とう心が生まれて来るんです。
 だからそのこういう例えば、その生き方と云う物は、身に付けて行かなければいけない。どの様な問題があってもです黙って治める、私が黙ってさえおればいい、と言う冷たいものではなくて、親心を持ってそれを祈って行けれるとか、もう自分の心にはばからない、此処には一口言わなければおられないと言う様な事であっても。そん時にはあ今こそ私に楽な徳を頂かせて下さる事の為に、木を大きくして下さる心を大きくして下さる働きがあっておるんだと、気付かせて頂く時に。
 その例えばはばからなかった程しの問題にお礼をいう心が生まれて、今迄はばからなかった物がはばかって来る様になるのです。そういう稽古をさせて頂きながらも尚且つです、私共ははっきりと答えを出して神様がどうの信心がどうのと言える事が無いのだけれども、訳の分からない事が沢山あるのだけれども、その解らないながらにも、何時の間にか段々有難うならせて頂いて、信心の芽が伸びて育って行くね。そして花を咲かせ実を稔らせる所のおかげを頂いて行く。
 その過程を私共がですね、大事にしていかなければならない。それが信心だと言う事です。そして後から考えてみて、はああれもおかげであったなぁ、惟もおかげであったなあ、あん時私が、右と言うておったら左と言うておったら、今どうなっておっただろうかと言う様な事がある。それを自分の心の中にそれを頂かせて頂いて、黙って治めて来ると言うおかげを頂かせて頂いて、それこそつい此の頃までは、もうそれこそ暑うて堪らんと言う様な日にちが続いておりましたが、最近ではもう朝などは寒い様にある。
 こうやって席詰めて話頂いておっても、汗一つ出らない程しの、涼しい時節になって来た天地の働きと云う物は、もうすさまじいのです。けれども何時とはなしに、涼しゅうなりよるとでしょうよが。何時とはなしに、そういう自然の働きと云う物を受けて行きながら、愈々有り難いと云う物だけは、大きく豊かに育って行くというおかげを頂いて行きたい。そういう有り難いという心でです、この二十三日の御霊のお祭りも迎えさしてもらい、また拝ませて頂きたいと思うのであります。